夢幻的プラネタリウム

visionary planetarium

はじめての繭期 2023

前回に引き続き今回も完走しました。1週間で摂取していい濃度の作品ではない。


▼Dステ12th『TRUMP』 TRUTH(2013年上演)
REVERSE公演を見てから1年半経ってTRUTH公演に辿り着いた。近々でCOCOONを見たばかりだったので、陳内くんのクラウスに一切の違和感を抱くことなく見ることができた。逆に言うと三津谷さんのウルの方に少し困惑するくらい。REVERSEもTRUTHもどちらもそれぞれのよさがあるけれど、志尊はラファエロよりもアンジェリコのほうがしっくりくるかも。外側に向かうエネルギーの放出と煽り力の高い演技がうまい。台詞や進行やステージの使い方の一部はそのままCOCOONに引き継がれているのだなということにも気がついた。初見で見る際の順番でシリーズへの思い入れの箇所は大きく変わるだろうけれど、初見ならずとも順番によっては受ける印象や抱く感想は変わりそう。友情が信仰になり殺意に辿り着いたウルとソフィの関係性は死を以て友情へと回帰した。対照的に、永遠を与えてしまったことでクラウスとソフィの間に存在するかもしれなかった友情は永遠に損なわれたのかもと思いながら見た。そこにクラウスとアレンの関係性を乗せてしまうと、クラウスは永遠を与えることができる特性を持つ以上、彼の欲する「友だち」に手が届くことはないのだろうと思えてしまうので切ない。アレンがクラウスに与えたのは、永遠の命を持つ彼の「寂しい」という感情のラベルであるいう事実も切ない。名前がつくことで形を持った感情は、アレンを失ってもその形を主張し続けて、そしてその感情を抱くたびにクラウスはアレンを失った事実を突きつけられるのだから。叙述トリックをしっかりと理解してから見るのは初めてだったけれど、やっぱり種明かしの瞬間に凄まじい衝撃を受けるのですごい舞台だった。


▼Patch × TRUMP series 10th ANNIVERSARY 『SPECTER』(2019年上演)
結末を知って見るSPECTERのしんどさたるや。初見ではまああなたにも事情があるのでしょうがと見ていた人々に対し、おまえも最悪!おまえも最悪!繭期を都合のいい言い訳に使うな!と言いたくなってしまう。死を手放したいと願うダンピールに「どうしてそれを手放そうとする」と羨望を向けるクラウスがその後、自らのエゴ以外の何物でもない感情によって1人のダンピールから死を奪うわけで。結局、死を望む者には永遠を、永遠を望む者には死をがこのシリーズの主流なのだなと思い知らされる。「もう二度と俺の目の前で誰も死なせない/誰も殺させはしない」と繰り返し口にしていた臥萬里が「言ったろ、俺の前ではもう誰も死なせないって」と言い残すことができたのはせめてもの救いかもしれない。臥萬里の死を惨めな死なんて絶対に言わせないと強く思いながら見た。何度見ても「もうおまえでいいや」は最悪台詞すぎるので最悪です。ガ・バンリが臥萬里の名を受け継ぐ展開、昨日のTRUMPを見ている最中から何度も反芻していたけれど、石舟にノームが「ガ・バンリ」と呼ばれるのを聞いた瞬間にぐっと胸が詰まったのですごい舞台だよ。臥萬里からソフィという名を受け継いだ者は大切な人を守ることができないし、ガ・バンリという名を受け継いだ者は誰かを守ることができたのだという事実。名前は願いであり呪いだなと感じる事実です。LILIUMを見ていない人間だけれどクラナッハの「永遠に枯れない花を咲かせてくれ。いつの日か君がその手で」という願いも呪いだということはなんとなく察しています。


▼ミュージカル『マリーゴールド』(2018年上演)
とにかく全員歌がうまいし言葉数が多く畳み掛けるような曲でもしっかりと歌詞が聞き取ることのできる、歌唱力と表現力の暴力みたいなミュージカル。中でもアナベルとエリカとコリウスヘンルーダで歌う我守護、めちゃめちゃに強くてやっぱりばちばちにテンションが上がる。この圧と迫力、勝てる……!と思えるから最高。でも「我は守護者なり」というワードは地獄への確定演出なので。最悪だよ。不本意に永遠の命を与えられたソフィに向かって「永遠の命が欲しいの」と告白するのはあまりにも地雷でしょの気持ちで見てしまうけれどそんなのアナベルは知らないもんな。2800年経っても「ウルは親友だった。たった一人の大切な、友だちだった」とウルを追い求めて生きているソフィが、ガーベラを一緒に連れて行きたい理由が恐らくダリ・デリコの子であるダンピールだからなの、ウルに対する執念を強く感じて少しぞっとする。「永遠なんてくそくらえよ」と言い放つガーベラに「昔の自分を見ているようだ」「僕は君であり君は僕だからだ」と自分を重ね合わせるソフィは、自分が誰かに言ってほしかった願いをアナベルに言わせているのかもしれないなと思う。生まれてきてよかったと思えるように、いつの日か幸せに死ぬことができるように。でもソフィの境遇への同情とソフィの所業の残酷さは別の話なので。何度見ても「知ってる?マリーゴールド花言葉は」で訪れる幕切れの鮮やかさに惚れ惚れする。言わずともにこの物語を見たすべての人がそれに続く言葉を浮かべることのできる幕切れ。あまりにも無慈悲。


▼音楽朗読劇『黑世界 ~リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について~』 雨下の章(2020年上演)
やっぱりこの作品に朗読劇という冠をつけて世に送り出すの、どうかしていると思うんですよね。本を手に持ってはいるものの、ほぼほぼ小道具で歌って踊るミュージカルだもん。そして誰も彼も歌がうまい。LILIUMの外堀を埋めるようにLILIUM以外の作品を見てきているけれど、黑世界を見るとLILIUMのこと見たくないなの気持ちが強まる。絶対にしんどい思いをするとわかりきっている。前向きで希望に満ちた永遠を見せてくれる「ついでいくもの、こえていくこと」で泣かされた後に「求めろ捧げろ待っていろ」を見せられたら、我々は一体何を見せられているのか!になるよ。そしてその直後に「少女を映す鏡」という名作を突きつけられ再びぼろぼろ泣かされるの、感情のジェットコースターで悪酔いする。途方もなくて悲しくて遣り切れないけれどどこかに必ず一匙の暖かさがある物語にリリー自身の意思を感じるたび、リリーのことを好きになる。そしてそれ故とても切なくなってしまう。悲しいという感情をその胸にしっかりと抱えたまま、狂気に身を委ねることはしないと強く自らを律するリリーの永遠を思うと。リリーとシュカは、最後に狂うことを躊躇う者同士なんだなと思いながら「枯れゆくウル」を見た。優しくて、哀しい者同士。黑世界を見るたびに、これからも永遠の時間を生きなければならないリリーの世界が、せめて優しく暖かいものであるようにと強く強く願わずにはいられない。


▼音楽朗読劇『黑世界 ~リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について~』 日和の章(2020年上演)
前回いちばん最後に見た作品ということもあっていちばん記憶と印象が鮮明だった。やっぱり「青い薔薇の教会」が印象深い。神父様の「私は君が後悔をしているのなら君を赦すことを諦めたくない」という言葉から滲み出る切実さたるや。君を赦したいではなく、「君を赦すことを諦めたくない」であるところに、相反する想いを抱える神父様の苦悩が見え隠れする気がして痛々しさすら感じる。苦しみの色が強く、明確な答えは出ないものの、青い薔薇が微かな希望を感じさせる物語の閉じ方の優しさがとても好き。妹を殺した相手に、罰せられるためにではなく赦されるために生きてほしいと願う神父様の心が救われる日がいつか訪れることを祈っている。雨下の章のリリーはシュカに見守られる者だったけれど、日和の章のリリーはラッカを見守る者になったんだなと思いながら縦軸の物語を見た。何かを失ったことはわかるけれど、何を失ったのかはわからない。でもそれが、とても大切なものだったということはわかる。ラッカにとってのリリーという存在の大きさを感じる描写。「孤独が永遠を支配する。ここにいるのは私ひとり。今までもこれからもずっと」と孤独に溺れてしまいそうなリリーにかけられる「リリーさんの不可能がいつか叶うことを願っています」という言葉が、「枯れない花であるあなたが、いつか散ることができますように」という言葉が、リリーのこれからを柔らかく照らしてくれるといいのに。


▼ミュージカル『ヴェラキッカ』(2022年上演)
これははじめての繭期外の作品だけど、録画をこの期間中に見た。大量の犠牲者も炎上も存在しない、ハッピーエンドとは言い難いけれどそれにとても近い後味を残す物語。後日譚として、グランギニョルやSPECTERの後のTRUMPのような物語を突きつけられないことを祈っている。ヴェラキッカ家はシオンが生み出した共同幻想であるとわかった瞬間に、シオンがイニシアチブを使ったという事実と、シオンにだけはノラの姿は見えないのだという事実を同時に付きつけられて感情が滅茶苦茶になった。実在したノラに誰よりも寄り添い誰よりも彼女の自由を願ったシオンにだけ、ノラが見えない共同幻想。振り返ると、シオンがノラに名を呼ばれ振り向くのも、同時に名を呼ばれたカイが先に振り向いたのでそれを追いかけるようにその方向を見ているだけなんですよ。これがシオンが自らに課した贖罪なのだとするとあまりにも痛々しすぎると思ってしまったので、カイの「愛するかどうかは自分が決めたらいい」とシオン自身に委ねる幅を持たせた言葉の優しさにちょっと泣いてしまった。ミュージカル作品を見るたびに同じことを言うけれど、とにかく全員歌がうまくてすごい。平野綾さんの美しく繊細ながらも確かで迫力のある歌声が、共同幻想に取り込まれながらも自分の感覚や感情をしっかり言語化できるキャンディーの客観性みたいなものを際立たせていて特別好きだった。その声で「幻想のノラを愛した記憶。今では色褪せた想い出だけど、ちゃんとここにある」「これは街で耳にした噂。ヴェラキッカの屋敷では、気の触れた老人が空想に耽りながらひとりで暮らしているらしい。私は知っている、彼はひとりではない」と後日を語られることで、この物語の後味を決定づけている気がする。