夢幻的プラネタリウム

visionary planetarium

はじめての繭期 2021

TRUMP、何度か聞いたことはあります!程度の印象しか持ち合わせていなかったものの、ヴァンパイアの話であると聞いて、まあ無料だしとりあえず1作見てみて考えようと手を出したのが運の尽き。8日間も舞台鑑賞をする羽目に陥った。途中から、引き返しても地獄だからもう進むしかない!と変なテンションになっていたけれど、「黑世界」がとてもよかったので最後まで見てよかった。でも新作はあと5年くらいしていい感じに記憶が薄れてから見たい。


▼Dステ12th 『TRUMP』REVERSE(2013年上演)
TRUTH公演とREVERSE公演があり、これは配役をチェンジしたREVERSE公演であるということを教えてもらいながら見た。繭期とはヴァンパイアの思春期であると聞いていたので、もっと鬱々とした物語なのかと思っていたら想像していた以上にギャグが取り揃えられていた。そして想像していた以上にニチアサで見たことがある顔がいた。カタカナを覚えるのが苦手な人間、役名をきちんと整理しながら見るためにポニキャの映像作品詳細を眺めながら鑑賞していたのだけれど、それにより、物語の中でシャッフル的に配役を変えているのではなく、お互いがお互いを補完する立ち位置にいる人の配役を変えているのだということが理解できた。ソフィとウルが、クラウスとアレンが、ラファエロとアンジェリコが、バンリとピエトロが入れ替わっているの、TRUTH公演も見たくなる配役チェンジじゃん。個人的にピエトロのかわいいビジュアルとよくしゃべる印象が好きだったので、シルエットであっさり殺されるのを目の当たりして絶句した。まあでも最終的に登場人物ほとんど死ぬ銀英伝みたいな展開だったんであれなんですけど。永遠の命を求める者には死が、永遠の命などくそくらえだと言い放つ者に永遠の命が与えられる物語。本当に何も知らない状態で見たので、舞台で見せる叙述トリックなのだと理解した瞬間に衝撃のあまり変な声出た。TRUMPという存在に死や老いがないことが異なる時系列に違和感を与えない仕様、めちゃくちゃすごい。設定やギャグに翻弄されながらもとても見応えのある物語だったので他もいくつか見てみたい。


▼Patch × TRUMP series 10th ANNIVERSARY 『SPECTER』(2019年上演)
あらすじを読み、ガバンリ、昨日の物語にいたなと思いながら見はじめた。自らの余命が幾ばくもないことを理解したダンピールが永遠の命を与えることのできるTRUMPを信仰する話、昨日見た物語と重なる部分が非常に多かった。TRUMPを信仰した者とその者の近くにいた者はそのほとんどが死を迎え、住処は焼き払われるところまで含めて。望まず死を与え望まぬ死を与えられる者たちが入り乱れ、血と炎で赤く染め上げられるステージを見ながら、ここが地獄なのか……と思っていたら、ガバンリがサトクリフの予言の通り無慈悲な死を迎えるので。ガバンリの死の瞬間、あまりにも凄絶で目を逸らすこともできずにただただ呆然と見てしまった。大切な人を守れなかった後悔を抱えていたガバンリに守られた子どもがガバンリという名を受け継ぐ展開、これだけを見れば50000歩譲って前向きな物語だと解釈することも可能なんですけど。これだけを見れば。でもこの物語にはつい昨日見たTRUMPと題された続きがあるんですよ。この物語でのサトクリフの予言のように、あまりにもあっけなく死ぬガバンリと、永遠の命を与えられ死が見えないソフィの出てくる続きが。繭期特有の病のように描かれていたサトクリフの予言により、この物語の終わりで生き残ったガバンリがTRUMPに出ていたガバンリで、ソフィもTRUMPに出ていたソフィだとわかる作り。丁寧ではあるけれど血も涙もない。TRUTH公演見たいなとか思っていたけれどもう二度とTRUMPには戻りたくなくなっている。


▼ピースピット2017年本公演『グランギニョル』(2017年上演)
TRUMPを信仰することを原初信仰と言うのだとわかった舞台。推しをつくったところで大半は死ぬとここまでの2作を見て学んだのに、衣装の裾さばきが華麗なゲルハルトに見惚れてしまったし、レイン中級議員好きなビジュアルだなと気がついてしまったし、李春林のキャラクタービジュアルも常識人みたいな顔してやばい戦法使うのも最高じゃんと思ってしまった。愚か。しかし幸運なことにグランギニョルという物語はここまでの2作と比較すると死者は少ないほうだったので推しは生き抜きました。ゲルハルトからダリへの複雑怪奇で捩れに捩れた感情の向け方を見て、こんなのシンメのそれじゃん……と思っていたら、「ダリを侮辱する者は僕が許さない」とダリの聞いていないところで言い切るゲルハルトと、「ゲルハルトを侮辱する者は俺が許さん」とゲルハルトの目の前で啖呵を切るダリで鮮やかな対を描かれるのでシンメ厨は簡単にやられました。「この世に生まれた者たちは皆、それぞれの呪いを抱えて生きているわ」「でも、皆がその呪いに抗いながら、それでも幸せになろうと生きている」と話すフリーダ様が、自身は幸せかと問われて「幸せであろうと努力しているわ」と答えるのがとても気高くて美しくて大好きだった。繭期の最中に実験台にされた吸血種の少年少女側の心情も描かれる物語は視点の多さ故に苦しみが多様で心が痛かった。この世に生まれ落ちたウルの幸せを願う人が多ければ多いほどに、その後日譚であるTRUMPを知っている人間の絶望が深くなる仕様の物語。人の心はないのか。


▼ミュージカル『マリーゴールド』(2018年上演)
この人もこの人もこの人も歌がうまい!とテンションが上がったミュージカルスタイル。我は守護者なりと奮い立つばちばちにかっこいい歌を聞きながら、守護者という言葉にトラウマを抱えたばかりの人間は嫌な予感しかしなかったし、嫌な予感ほどよく当たる。ソフィとウルという2人組を、2800年後のソフィとウルだ……と見ていたら、「君は友だちだから」というウルの言葉をきっかけにソフィが「おまえが友だちだって?笑わせるなよ」「キャメリア」「ウルごっこはおしまいだ」と言い出すので。情け容赦ない。ソフィは、ダリデリコの子であるダンピールを手に入れたいのだろうなと思いながら見ていたので、ガーベラが「永遠なんてくそくらえよ」と口にすることで、「誰が望んでこんな体になった」とこぼすほどに永遠の命を持て余すソフィのかつての姿が重なってしんどくなってしまった。吸血種化したアナベルが母の愛を以てしてイニシアチブに抗い「私にあなたを殺させないで」とガーベラに懇願するのを、これもすべてイニシアチブのもとでソフィに言わされているんだろ!と穿った目で見るのも仕方なくない?と思っていたらまじでそういう意図で作られていたらしいのでもう何も信じられない。希望という意味を持つ名前を捨てたマリーゴールドの「知ってる?マリーゴールド花言葉は」という言葉で物語が終わるの、とても鮮烈だった。物語の中でマリーゴールド花言葉を聞かされたすべての人間が「絶望」という答えを抱える幕切れ。鮮やかで、非情。


COCOON 月の翳り(2019年上演)
グランギニョルとTRUMPの間に位置する物語。アンジェリコラファエロの物語だと思ったら、かつてのグスタフに抱いた幻想を追い求めて繭期中毒者となったドナテルロや、ドナテルロに惑わされ深い繭期に自ら落ちていくディエゴの物語でもあった。「俺は好きでデリコ家に生まれたわけじゃない」というラファエロの言葉といい、グランギニョルを見た上で見るアンジェリコラファエロの物語は絶妙な既視感で余計に刺さる。TRUMPを見たときになんだこいつと感じたアンジェリコだけれど、イニシアチブではない選択の上での主従関係を結ぶ姿はアンジェリコ様と呼ばれるに相応しい貫録だったし、この物語の結末を見届けることで抱く憐憫もあるので。取り戻せないほどの断絶を目の当たりにしたアンジェリコが「そんな目で僕を見ないでくれ」「ラファエロ、僕はおまえのその目が嫌いだ」と泣き伏す上に薔薇の花びらが塊で降ってくるのを見て、薔薇の花びらで鮮血を見せる場面と、心が血を流しすぎていると感情が赤く染まるというジュリオの言葉を連想した。自らが埋もれて見えなくなるほど心から血を流すアンジェリコに「昔の話だよ。泣き虫アンジェリコはもういない」という冒頭の言葉が響く終わり。個人的にはジュリオが「君たちと過ごす退屈は悪くなかった」とディエゴの手を取らない場面がとても好きだった。ラファエロを通したウルの姿のエミールを見ていたのだと突きつけられる衝撃でしばらく放心していたけれど、ジュリオとエミールが繭期を越えてクランを出たのがこの物語の希望なので、今後一切TRUMPと関わることなく物語にも登場しないでほしい。好きだからこそ。


COCOON 星ひとつ(2019年上演)
ウルの「これは僕の物語。僕と、ソフィの物語だ」という言葉ではじまるTRUMPの再解釈版。グランギニョル最後のダリとウルを再び見せられた上で、ウルの亡骸を抱えるダリを突きつけられる冒頭からもう見たくなさが募った。TRUMP以降に見た全ての物語が解像度を上げているのでいちばん最初に見たTRUMPと同じ立ち回り同じ台詞だとしても見え方がまったく違う。親に捨てられるよりも親が死んでいるほうがマシだと言い放つソフィも、志願してクランへやってきたガバンリが「俺はそいつを死なせるわけにはいかないんだ」とソフィを守るのも、アンジェリコの純潔倶楽部計画を聞かされるウルの姿も、「俺たちはアンジェリコ様には逆らえないんです」「これが自分で望んだことなのか、もうわからないんです!」というジョルジュとモローの言葉も、ソフィのイニシアチブを取りクラウスに燃やされ灰になるラファエロを目の当たりしたダリの表情とその頭に響くフリーダ様の最期の言葉も、「あいつは僕が殺さなきゃなかったのに」「ちがう、死んじゃだめだったんだ」というアンジェリコの錯乱も、何もかもが理解できてしまうからとてもとても苦しい。「上のラファエロは母親に似た。ウルのほうは、俺に似て男前だ。ふたりとも、俺の大切な息子だ」とクラウスに話すダリが「ラファエロもウルも俺が守る」と決意を語るのを、この物語の結末を知りながら聞かされる人間の気持ちを考えたことがありますか?ウルの死を嘆く者たちに「誰であろうと、この死を嘆くことは許さん」と言い、「首に噛まれた跡がある。ソフィアンダーソン、ウルを助けようとしてくれたのか?なあウル、いい友達を持ったじゃないか。それをクズだなんて言って悪かったな」とウルの亡骸に優しく話しかけるダリを見ながらめちゃくちゃ泣いてしまった。「負けるな、負けるな、負けるな、そう願うしかなかった。ウル、ソフィアンダーソンはきっと、おまえにとってのひとつの星だったんだ。おまえのその手は、星に届いたはずだ。だってソフィはおまえを守ろうとしてくれたんだぞ。この首の噛み傷はその証だ。だから、誰であろうと、この死を嘆かせたりはしない。いつも泣いてばかりの赤ん坊だったおまえが、よくがんばった。おまえは負けなかった。これは絶望なんかじゃない。ここにあるおまえの死は、希望なんだ」とウルの亡骸を抱えて優しく紡ぐダリに薔薇の花びらが降り注ぐ物語の終わり。ぼろぼろ泣きながら写経した。アレンしか見えていないクラウスに、拒んだはずの永遠を身勝手に与えられたソフィだけれど、このダリの解釈だけがソフィを救えるのかもしれないと思ってしまった。でもそれはウルにもソフィにも届きはしないんだよ。悲しい。


▼音楽朗読劇『黑世界 ~リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について~』 雨下の章(2020年上演)
リリーとそのイマジナリーであるチェリーを中心に据えた短編集。音楽朗読劇とのことだけれど、生オケ入っているし衣装もメイクもばっちりだし手にしている本は恐らく小道具のミュージカルだよ。リリーの状況を説明する「イデアの闖入者」、永遠に続くものを作り出そうとする橋職人との交流を描いた「ついでいくもの、こえていくこと」、七五調の台詞でお送りされる繭期の幻であってほしい衝撃の問題作「求めろ、捧げろ、待っていろ」、鏡の中で囚われの身になる「少女を映す鏡」、繰り返し見続ける夢を断ち切る「馬車の日」、永遠を生きる少女を見守る者による「枯れゆくウル」と、6つの物語で構成されている。LILIUMを見ずに見はじめたのでいきなり「彼女は永遠に生き続け、永遠に彷徨い続ける。両の手が、死に届くその日まで」と告げられて、えっリリーも永遠の命を持つ子なんです?と驚いた。全体を通して、リリーが死を見届ける物語だった。「少女を映す鏡」で永遠の眠りにつくアイダを見届けたリリーがシュカに「せめておまえに悲しいなんて感情が残っていなければいいんだけどね」と言葉をかけられて「この胸の奥にあるものが悲しいという感情なら、あたしは、これを捨てたりなんかしないわ」と返すのを見てぼろぼろ泣いてしまった。そしてシュカという人物の正体が明かされる「枯れゆくウル」。残酷な人体実験を受け続けていた不老不死者である少女と、その少女の心に触れて少女を解き放ち、彼女を見届けるために不老薬ウルを摂取したシュカの物語。シュカが人体実験を繰り返す場で狂えずにいたことを「優しくて、哀れな人」と話すリリーの言葉は、リリー自身にもかかるのだと理解できるから悲しい。悲しいけれど暖かいのがリリーの物語だなと見ていたので、最後に「あたしは、あいつみたいになりたくなかっただけなのかもしれない。あたしに永遠の命を与えた吸血種、ソフィアンダーソンのようには。狂気に身を落とせば、そのほうがあなたの言うようにましかもしれない。でもそれだけはできない。あたしは、ソフィじゃない」という言葉を突きつけられて思いっきり抉られた。リリーの物語の暖かさは、リリーの意志によるものなのだとわかってまたぼろぼろ泣く。エンドロールではじめて物語によって脚本家が異なることに気がついて、降田天ってあの?と驚いたりした。冒頭でLILIUMを見たくなくなってしまったのだけれど、リリーに永遠の命を与えた吸血種がソフィアンダーソンであると知り、見なければならない気がしているのでそのうち見ます。たぶん、きっと。


▼音楽朗読劇『黑世界 ~リリーの永遠記憶探訪記、或いは、終わりなき繭期にまつわる寥々たる考察について~』 日和の章(2020年上演)
5歳の少女と7歳の少年とその父親と家族のように暮らす「家族ごっこ」、吸血種に妹を殺された神父がその仇を赦すことを諦めない「青い薔薇の教会」、森の中で出会った吸血種あるあるが繰り広げられる問題作「静かな村の賑やかなふたり」、「家族ごっこ」の20年後である「血と記憶」、雁字搦めになった繭期の少年少女による「二本の鎖」、「血と記憶」の100年後である「100年の孤独」と、6つの物語で構成された短編集。「青い薔薇の協会」、見終えてからいちばん考え込んだ物語だった。赦されない罪を犯したから罰を与えてほしいと願う者に与える罰は罰なのだろうか。いつか赦されるために生きてくれというのは罰ではないのだろうか。「赦すのも赦さないのも罰するのも罰さないのも、私だけの権利だ」と言い切る神父様の言葉を聞きながら、その権利をたった一人で抱えて生き続けるのは苦しいだろうにと思ってしまった。罪と罰と赦しはリリーのこれまでにもかかっていることがわかるから、償いきれない罪を背負い赦されるはずがないし自分を赦すことなんてできないと話すリリーの心を「不可能の青い薔薇が咲くように」という言葉がほんの少しでも救ってくれればいいのにと願わずにはいられない。そしてこの物語の神父様の「繭期を都合のいい言い訳に使うな!」という言葉はここまで見てきた全ての繭期に聞かせてやってほしい。「家族ごっこ」「血と記憶」「100年の孤独」はひとつの物語。家族を守るために家族ごっこを手放したリリーと、そんなリリーにもう一度会うために必死に生きたかつての少女。彼女と自分は最初から出会ってはいけなかったのだとイニシアチブで記憶を消したリリーが、約束を果たすためにかつての少女の最期にその記憶を返すの、こんなの泣かずに見られるわけがないじゃん。大切に思っているからそばにいたくて、でも大切に思っているからこそそばにはいられなかった。5歳の少女が130歳の老女になるまでの時間が経っているのに、隣にいるリリーが何ひとつ変わらない姿でいるのが痛々しくて余計に悲しい。「あなたも、孤独に負けないで。永遠に、負けないで。あなたは、ひとりじゃない」「せめて祈っているよ。枯れない花であるあなたがいつか散ることができますように」という優しい言葉が、これからも生き続けなければならないリリーの心を救ってくれればいいのに。これまで永遠の命を持つ者たちの物語を見てきて、まああなたにも事情はあるのでしょうが、と思い続けてきたので、リリーが生き続けなければならない世界がせめて優しいものであってほしいというのがLILIUMを見ていないから持つことができる感想なのだとしたら、もうLILIUMは見たくないんですよね。リリーの幸せを祈るこの気持ちのままにこのシリーズを見終えたい。